ペリーの黒船来航は、日本の様々な面に大きな影響を与えました。
明治期から昭和時代にかけて、日本茶文化はどのように変化していったのでしょうか?
〜日本茶文化の紹介〜
茶の湯、衰退の危機
江戸時代、茶の湯は武士や富裕な町人などによって支えられてきました。
しかし、明治維新による大きな社会的変動によって、その基盤を失うこととなります。
茶道具は大名家に伝存されたり、富豪によって巨費で収集されていましたが、
安価で売りたてられました。
このように、明治期に入って茶の湯は勢いを失い、衰退に向かいました。
ところが、茶の湯は学校教育のなかに取り入れられるようになります。
女子教育にあたって、礼節としての茶の湯の意義が評価されたためです。
従来、茶の湯は基本的に男性によって行われていましたが、
学校教育をきっかけに茶道を学ぶ女性が急増し、今日に至ります。
また、文学によって海外からも関心が高まります。
岡倉覚三(天心)のTheBook of Tea (日本語訳『茶の本』)は、
西欧の人々に日本の茶道に対する関心を高め、深い理解を与えたと評価されています。
日露戦争後の1906年、ニューヨークで刊行され、1928年までに14版を重ね、各国語に翻訳されました。
この本の第1章、人情の碗に では、
「茶道は日常生活の俗事の中に存する美しきものを
崇拝することに基づく一種の儀式(村岡博訳)」
と述べられています。
第2章以降は、茶の諸流、道教と禅道、茶室、芸術鑑賞、花、茶の宗匠を題材として、
精神文化としての茶について書かれました。
茶の紹介に留まらず、日本人の精神文化を海外に紹介した文献として、
同じく明治期に英文で発表された薪哀合羅麗の『武士道』と並んで挙げられます。
岡倉天心の業績による、海外での茶への関心の高まりから、
日本人以外によっても、茶に関する本が著されました。
1935年、『オール・アバウト・ティー』(AlI about Tea)全2巻が出版されます。
著者はアメリカ人、W.H. Ukers(ユーカース)で、新聞記者を経て茶・コーヒー関係の雑誌の主筆を務めました。
その後、AllaboutCoffee (ティビーエス・ブリタニカより邦訳出版)を刊行した後、世界を巡って資料を収集し、この本を完成させたのです。
また、ユーカースは1924年(大正13) と翌年に来日しています。
日本茶業会議所連合会は、彼の来日が茶の普及に役立つとみて、特別予算を組んで彼の取材に便宜を図りました。
ユーカースは静岡や宇治を初めとする主要産地を巡る中で、特に茶販売戦略における広告の重要性を説きました。
書名の通り、世界の茶に関するあらゆる情報を網羅した大著です。
このように、一時は衰退の危機にさらされた茶の湯でしたが、
学校教育への導入や開国、優れた文学によって以前の勢いを取り戻していきました。
〜海外での日本茶の消費〜
開国後、海外へ輸出されるようになった日本茶の消費を見ていきます。
開港以後、茶は年間に3,000 トンから4,000 トン程輸出されていたと推定され、
この内7割が横浜から、残りは長崎から積み出されたと考えられています。
当時の記録によれば、国内生産量の60~85%が輸出されています。
すなわち、統計上、日本各地で生産された茶の多くは、
日本人ではなく外国人が飲んでいたということです。
しかし、統計に表れた数値は、あくまでも商品として生産された緑茶が中心で、
一般自家用の番茶などは、この中に含まれていません。
日本人が日常的に飲用していた番茶などの消費量には、さほど変化がなかったと考えられます。
当時、輸出された日本茶のほとんどは、アメリカに輸入されていました。
日本人のようにそのまま飲むこともありましたが、普通はミルク・砂糖・レモンなどを入れていたようです。
日本茶の普及を図る日本茶業会議所は、雑誌などの広告を通じてストレートの飲み方を推奨しました。
1924年、三蒲絨天紐が、モルモットに緑茶を与えることで壊血病にかからないという実験結果を基に、緑茶にビタミンCが含まれていることを発表します。
これを受けて、日本はアメリカにおいて大々的な日本茶キャンペーンを開始しました。
しかし、1929年アメリカ農務省は独自の分析によって
「緑茶中のビタミンは極微量」と発表したため、
日本茶の宣伝は失敗に終わります。
これは、アメリカが不良の茶を分析試料としたためとも言われています。
コラム:茶のラベルに見る当時の文化
〜浮世絵と西洋のコラボレーション!?〜
海外へ輸出される茶の包装や木箱には、蘭字と呼ばれるラベルが貼られていました。
蘭字とは、
茶の輸出先に日本茶のイメージを分かりやすく伝えるためのラベルです。
鮮やかな木版画のデザインは、江戸時代以来の浮世絵の流れを汲んだものです。
また、アルファベットを用いて銘柄や産地名が書かれました。
このラベルを総称して蘭字と呼びます。
伝統的印刷技法による和洋折衷のデザインは、
日本のグラフィックデザインの先駆けとして美術史の上からも注目されています。
〜昭和初期と紅茶製造〜
明治初期に始めた烏龍茶製造からは撤退したものの、紅茶製造は小規模ながら行われていました。
たまたま、世界不況による在庫増大に伴って、インドなど世界産地からの輸出制限が行われたことで、日本紅茶が注目されました。
下の写真は、日本紅茶で、和紅茶と呼ばれます。
1932年には6,400 トンもの紅茶を輸出しましたが、
協定の期限が切れると急速に減退していきました。
世界恐慌に続く国内の昭和恐慌によって、日本の大陸進出は一層強化されます。
日本の全面的な影響力の下に中国北部に満洲国が建設されると共に、
隣りの蒙古に対する経済的進出も進みました。
日本の茶業界は、新たな需要の掘り起こしを狙って、
現地の嗜好にあった茶の開発に取り組みます。
国内には需要のない、着香茶や磚茶の製造が行われていたといいます。
1939年に第二次世界大戦がはじまり、日本も1941年(昭和16)から太平洋戦争に突入します。
1941年の茶輸出総量(紅茶なども含む)は12,300 トン、1944年には7,400 トン、1945年には1,535 トンと、年を追うごとに減少していきました。
食糧増産が掲げられ、茶園が麦などの生産に振り替えられ、
労働力不足により生産カが低下したためです。
こうした状況の中、日本は終戦を迎えました。
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