以前の記事でも解説したように、ペリーが黒船で来航したことで外国貿易が始まりました。当時の輸出品目としては、生糸と茶が主でした。
当時、海外に向けて積極的に茶を広める動きがありました。
明治政府は、殖産興業政策の一環として茶業振興にも注目していたのです。
今回は、民間と政府双方の、茶業振興の動きを見ていきます。
〜茶輸出の開始と茶園の開発〜
幕末の開国を機に緑茶の輸出が始まり、茶の販路が、国内から欧米へと一気に広がりました。
ペリーが日本に開国を迫った目的は、当時盛んであったアメリカの北太平洋における
捕鯨の補給基地を確保することとされます。
しかし開国後に日米間の貿易が始まると、日本からは生糸と茶が最大の輸出品となりました。
開国以前にも、製茶輸出の先駆けとなる出来事がありました。
茶の交易に携わっていた人物として、大浦慶(おおうらけい)が知られています。
長崎県出身で幕末に勤皇の志士を援助した女傑として、歴史に名を残しました。
1853年、大浦は長崎出島のオランダ人を通じて嬉野茶の見本をイギリス・アメリカ・アラビアに送りました。
これを受けてイギリス人の茶商から大量の茶の注文を受けて、九州各地から1万斤(6 トン)を集めてアメリカに輸出したのです。
開国後、海外への輸出が始まったことで、国内の流通は大きく変化しました。
当時、輸出需要が最も大きかった生糸は、現在の東京都にあたる多摩地区から横浜に
向かうルートができました。この生糸流通ルートは、「絹の道」と呼ばれます。
生糸に次いで輸出された茶も、産地から横浜に向かう新たな流通ルートが生まれました。
当時、茶が外国貿易の主役となったのは、
換金作物のなかで最も利益が大きいと認識されていたからでした。
横浜港が茶輸出の拠点となり、横浜開港が日本の商品流通路に劇的な変化を引き起こします。
開港に伴い外国商館にそれぞれの建設地が割り当てられただけでなく、
日本側でも茶商が横浜に出店を開いて茶の売り込みを図りました。
開国以前は江戸に出荷されていた茶の多くが直接横浜に向かうようになったのです。
こうして、江戸時代以来の茶問屋の特権的地位は崩れ去ってゆきました。
産地から横浜に集められた荒茶は、
波止場近くに設けられた「お茶場」と呼ばれる再製工場で火入れをされて積み出されました。
その工場をでは、日雇いの女性たちが熱した釜に茶葉を入れ、2人で向かいあってかき回しており、非常に過酷な労働でした。
それを歌ったのが「お茶場歌」です。この歌で歌われる女性たちの苦境は、茶の再製
機械が発明されるまで続くこととなります。
〜茶業政策の進展〜
政府は茶の生産を奨励するだけでなく、販路開拓にも力を入れていました。
1870年(明治3) のサンフランシスコ工業博覧会は、外国の博覧会に日本が初めて茶を出品した博覧会となりました。
これ以降、出展した博覧会では、会場に喫茶店を設けて来場者に試飲してもらうことも行われていたといいます。
また、政府は緑茶以外の紅茶・烏龍茶の生産にも意欲を示しました。
中国人を招聘して紅茶製造の技術習得を図る一方、輸出先の嗜好と生産事情の調査に乗り出しました。
政府は多田元吉(1829-1896)を海外に派遣します。
多田は千葉県の商家出身でしたが、神奈川奉行所に勤めました。
幕府瓦解後は他の幕臣と同様に静岡に移住し、静岡郊外で茶園を開墾し自ら生産に従事します。
多田は1875年に中国、翌年にインドを訪れ、日本人として初めてダージリンに足を踏み入れました。そして揉捻機の設計図を持ち帰るなど茶業発展の基礎的な業績をあげます。
この訪問時に、日本に持ち帰ったインドの茶種子は多田系インド雑種と呼ばれていて、
その交配種から現在の「べにふうき」などが生まれています。
このように海外から取り入れた知識を元に、主要産地では技術伝習会が開かれました。
九州では自生する山茶の積極的な活用が図られるなど、紅茶生産を活発化させる試みが行われました。
政府は茶の品質向上にも取り組みます。
1879年、製茶共進会を初めて開催し、出品された茶を評価しました。
共進会が会を重ねるにつれて、地域でも同様な会が開かれるようになっていきます。
茶の品質が評価される場が設けられたことで、茶業全般にわたる大きな刺激となりました。
当時、茶の輸出は外国人茶商を通じて行われていました。
外国人茶商は、日本に商館を設けて自国に茶を輸出していたのです。
国内では、外国人茶商を経由せずに、直接外国に茶を輸出しようとする動きがありました。
政府が直輸出を奨励したこともあり、この時期に茶の直輸出を目指す会社が相次いで設立されます。
特に、地域の有力者や篤農家が出資して各地に輸出会社が作られました。
1875年設立の狭山会社(現在の埼玉県) 、翌年設立の積信社(静岡県)などに続
き、1882年(同15)には三重県製茶会社、さらには中小の会社を統合した日本製茶会社が設立されます。
一方、緑茶輸出が盛んになるにつれて、
乾燥不十分な粗悪茶や着色茶を輸出するものが増加しました。
これは、目先の利益を追求しすぎたためで、
茶の輸入先であるアメリカが、1883年に「贋茶輸入禁止条令」を制定したほどです。
茶の品質低下とアメリカの動きに危機感を抱いた茶業者は政府に働きかけ、
1884年に「茶業糸且合準則」が制定されます。
「茶業糸且合準則」とは、
自家消費以外の茶を生産する者に対して組合加入を義務付け、
不正茶の製造を禁止すると同時に、取締所を各府県に設置することを求めるものです。
規則制定を受けて、各地では一斉に茶業組合が結成され、中央茶業本部が設立されました。
さらに、茶業組合とその統括機関としての茶業組合連合会議所、茶業組合中央会議
所が成立し、1943年まで日本茶業振興の中核となりました。
〜コラム:全国的な茶業の広まり〜
明治期には、茶業生産の実績がない地方でも、茶業の活性化が試みられました。
東北地方では、県が主体となって輸出向けの茶業が営まれました。
例えば、岩手県では各県の茶業規則を取り寄せ、また茶圏の増殖を図った記録が残っています。しかし、茶業は新規産業としては定着しなかったようです。
現在でも、東北地方の太平洋側に自家用の茶を僅かに作り続けている農家がありますが、
明治期における茶業振興政策の名残と見られます。
茶業の活性化は、当時の文献から読み取れます。
大正から昭和初期にかけ、茶業が盛んな府県の各茶業組合などから茶業史が刊行され
ました。
茶業史は、地域の茶業の歴史や生産• 取引の実態などを研究する上で重要な文献となっています。
また、こうした書物の刊行は茶業が産業としての強い活力を持ち、地域経済にとって大きな役割を担っていたことを示しています。
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