d:matcha Kyoto magazine

和束町にて、お茶農家&カフェを営むd:matcha Kyotoのブログです

[d:matcha dictionary] -8- 和束町の歴史

全国有数の高級茶の一つに数えられる和束茶。

今回は、和束茶が栽培されている和束町の歴史を紐解いていきます。

 

〜和束の始まり〜

現在の和束に集落が形成されていたとされるのは、 弥生時代です。

正確な時期はわかっていませんが、弥生時代には集落が存在していたと見られます。

 

奈良時代に入ると、和束という地名が文献に登場します。

740年10月、聖武天皇平城京を離れ、その2ヶ月後に恭仁宮(くにのみや)に恭仁京の建設を始めました。

現在の木津川市加茂町にあたる恭仁宮は、5年間にわたって首都となりました。

 

恭仁京の建設が進められている間、恭仁京から甲賀郡紫香楽村(しがらきむら)に通じる恭仁東北道が開通します。

現在の滋賀県甲賀市信楽町にあたる甲賀郡紫香楽村に、

聖武天皇離宮が建設されたためです。

恭仁東北道が和束を通ることとなり、文献に「和束」という地名が現れるようになりました。

 

 

ところで、和束町は、古い記録では和束の杣と記されていました。

 

とは、

樹木を植え育て、材木をとる山という意味です。

 

古代から中世にかけて、和束の材木は平城京を始めとする奈良の寺社の建築用材として用いられていました。

このように、製茶と並んで、林業が盛んだったのです。

 

昭和30年ごろにガスが普及するまでは、ナラやクヌギといった雑木を盛んに薪や炭にしていました。

冬場の稼ぎとして炭焼きが行われていたほか、

和束川の最上流に位置する湯船では、伐採や製材を副業とする人が多くいました。

 

現在でも、和束町には杣田(そまだ)という地名が残っています。

 

和束の地は、 平安時代から鎌倉時代には、奈良の興福寺と京都の北野天満宮の荘園となり、和豆香杣山之荘、 和束荘などと呼ばれました。

 

 

〜お茶の栽培始まる〜

 

鎌倉時代に入ると、和束でお茶の栽培が始まります。

 

和束の西に位置する海住山寺にいた高僧、慈心上人(1170-1243年) が、

茶業興隆の祖と言われる栂ノ尾の明恵上人(1173-1232年) から茶の種子を分けてもらい、

和束の鷲峰山麓に栽培しました。

鷲峰山(じゅぶさん)は和束町の北東、宇治田原町との境に位置し、南山城地方の最高峰にあたります。

この出来事が和束での茶栽培の始まりと言われます。

 

安土桃山時代天正(1573-1592年) には、和束の原山に6反近い広さの畑を開き、茶の実を蒔いたと言う記録が残されています。

しかし、当時の製茶法は現在のようには発達しておらず、栽培した茶は自家用に使われていました。

 

 

〜茶生産の広まり〜

 

江戸時代に入り、

徳川二代将軍秀忠(1579-1632年)の娘、徳川和子(後の束福門院、1607-1678年)が後水尾天皇(1596年-1680年)の中宮になった時、和束は朝廷に献上されました。

皇室直轄の領地となったことで、 和束のお茶は京都御所に納められるようになります。

 

江戸時代中期の1738年、宇治田原町の永谷宗円が煎茶法を考案します。

その頃からお茶の栽培が増え、煎茶を専門にする農家が出始めました。

和束町が属する相楽郡での茶生産は、すでに中世から始まっていましたが、

永谷宗円の製法を受けて、現在の主な産地である和束郷に茶生産が広まりました。

 

そして、江戸時代中期には茶保護施策が開始され、和束の茶業も一層発展します。

 

嘉永6年(1853年)の「城江銘茶製所鑑」には、次の地名が掲載されています。

「東之方」として原山、別所、炭山、石寺、白栖、中村、射場(湯船)、小杉(湯船)が、

「西之方」には門前、園村、杣田、撰原、下島が記されました。

 

このうち、原山が最上位に格付けられ、他にも多くが中程度にランク付けされています。

これは、幕末に製茶が盛んであったことを示しています。

 

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〜和束の茶、アメリカへ〜

 

開国後、茶は海外への重要な輸出産品になります。

政府の奨励もあり、全国的に茶の生産が増加し、相楽郡での茶生産も著しく発展します。

一方、国内全体で品質の悪い粗悪な茶が問題視されます

明治17年(1884年)、不正茶の取締りと販路の拡大を目的に、相楽郡茶業組合が組織されました。

 

この頃、和束で生産された荒茶(収穫した茶葉を蒸し、揉んで乾燥させたもの)は、

アメリカへと輸出されていました。

 

和束の南西に位置する山城町上狛が、木津川水運を利用した茶の集積地でした。

和束町の中央を流れる和束川は木津川に流れこみ、和束川と木津川の合流地点から5-10kmほど川下に、上狛があります。

和束を始めとする相楽郡内から集められた荒茶は、上狛の茶問屋で精製され、木津川から出荷されました。

木津川は途中で淀川と合流し、大阪湾に流れ込みます。

このように上狛から神戸港へ運ばれ、神戸からアメリカへ輸出されたのでした。

 

 

ここまで見てきたように、和束という地名は長い歴史を持っていますが、

和束町は1954年に西和束村・中和束村・東和束村が合併して誕生しました。

1956年には湯船村を編入し、現在では京都府で面積が3番目に大きな町となっています。

和束の美しい茶畑の景色は、2008年に京都府景観資産第1号に登録されました。

現在は、宇治茶の茶葉の約半分を生産しており、抹茶の原料となる碾茶の生産で全国有数の産地となっています。

 

 

 

 

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